結果は委員長を中心にまとめた報告書を、民医連
から派遣された4人の委員は不適切とし、少数意見
も付して公表することになり、厚生省は「岡山検診
 その後松岡先生からは、後遺症なしを証明するた
めに行われたと思われる厚生省委託の岡山県検診に
ついての苦労話しもお聞きしました。約2年間に及
ぶ検診で、月1回の会議の前日には必ず岡山協立病
院の水落先生とともに、検診結果をチエックし岡山
の医学会の権威者たちと徹底的に討論したそうです。
○官製岡山検診
その報告は、森永被害者とも付き合いのあった遠迫
先生が行うことになり、スライドを使って話す原稿
の下書きを松岡先生が担当しました。そしてスライ
ドは遠迫先生が担当しました。この検診結果の発表
は丸山報告後の日本公衆衛生学会での論争で、臨床
的な裏付けとなり大きな役割を果たすことができた
のです。
 
新日本医師協会を通じて35名の精密検診を実施したことを知っていた丸山教授から、水島協同病院に連
絡が入り、その内容は第27回日本公衆衛生学会で発表する事の要請でした。 それは、学会で大阪府下
に在住する被害者68名の追跡訪問調査結果を発表する事と合わせて35名の精密検診結果を臨床医師と
して発表して欲しいというものでした。
○丸山報告での臨床的な裏づけ
 大方の医者から見放されており、何とかしなければという思いから、何が出てきてもよいカルテにして
おっかなびっくりでやることにしたそうです。 検査項目として身長・体重・発育状態・肝機能・貧血・
尿・知能指数IQ検査等を実施しましたが検査結果は正規分布しておらず、体格の良い人もいれば発育状
態の遅れた人もおり、検査結果をどう評価してよいかわからなかったため、そのままになっていました。
 守る会事務局長の岡崎さんは、サリドマイド薬害
問題で出会った遠迫先生に精密検診を依頼したとこ
ろ、内科医でありながら小児科も得意とする遠迫先
生と意気投合しました。そして、これは大変だとい
うことで、遠迫先生が新日本医師協会を通じ当時水
島協同病院の院長であった佐藤先生にお願いされた
のです。佐藤先生は、森永ひ素ミルク中毒事件を「
公害問題の一環」として精密検診の実施を引き受け
られ、松岡先生が担当する事になったのです。
 昭和40年8月守る会は結成10周年記念集会で
「どこの医者からもけんもほろろに診察をことわら
れ診てもらえない」の訴えから、組織の存在と同時
に精密検診実施の方針を出しました。
 遠迫先生は、ヒューマニックな方で当時中国から帰
国し、開業医ながら民医連に加盟し、未開放部落の人
達の健康診断を手がけていました。
○遠迫先生との係わりと35名の検診
 当時民医連では働く人々の医療機関として、患者を診察室だけでなく生活と労働の場(広い背景)か
ら診ようという呼びかけが盛んに行われました。そういう革新的な医師達は集まって新日本医師協会を
作りました。一方、社会状況は高度成長期にあって、「四日市ぜんそく・イタイイタイ病・カネミ油症
・水俣病」などの公害病が発生し、水島でも製鉄・電力・石油化学・自動車等の大工場が建設され大気
汚染によるぜんそく患者が発生しました。 このことから、水島協同病院では「大気汚染問題」につい
て取り組んでいました。
 先生は、医者の家に生まれましたが、不幸にも父親を早くに亡くしたため、実直で患者思いの医者で
あった祖父の生き様を見て育ちました。 いつしか祖父の影響も受け、将来は第一線で患者の役にたて
る医者として思う存分働きたいと思うようになりました。 そして、その希望を叶えるため岡大医学部
・大学院(博士課程)で腕をみがき、昭和42年岡山民医連傘下の水島協同病院の医師となりました。
○松岡先生の生立ち
 平成22年2月27日(土)吉田、平松、真田、森脇の4名は、松岡先生宅を訪問し、昭和42年水島
協同病院で35名の被害者検診をすることになった経緯について、お話をお聞きしました。
      松岡先生自作の絵画
 のまとめをもって厚生省の見解としない」という結論を表明しました。
 松岡先生には、訪問当日ご多忙中にも係わらず快く対応いただきありがとうございました。
 
    松岡先生訪問記             「感謝の気持ちをこめて聞いた被害者を救ったストーリー」