森永ひ素ミルク中毒事件 
〜事件発生以来50年の闘いと救済の奇跡〜森永ひ素ミルク中毒
の被害者を守る会発行および、東中国センタから入手した資料をもと
に掲出しました。
   被害者の救済を図るため、三者会談での合意に沿って、昭和49年4月25日財団法人ひかり
  協会が設立され、各種事業を実施している。概要は次のとおりです。

  (1)事業
   被害者の健康管理、治療養護、生活保障、保護育成等

  (2)事業費
  「三者会談」における合意に基づき、被害者の救済及び(財)ひかり協会の運営に要するすべて
 の経費は、森永乳業(株)が負担している。

  (3)支出額
  平成20年度 約17億円
8.(財)ひかり協会
   被害者及びその親等は「森永ミルク中毒のこどもを守る会」(略称「守る会」を組織し、昭和
  48年、国・森永乳業に対して民事訴訟を提起した。
   昭和48年9月、訴訟とは別に、厚生大臣(大臣 斉藤邦吉)が「守る会」「森永乳業」及び
  「国」の三者によ  る話し合いを提唱し、第5回の三者会談(昭和48年12月23日)におい
  て、三者間で合意が成立し、以後はこれに沿って対策が講じられることとなった。なお、これ
  に伴い民事訴訟は「守る会」の取り下げにより、昭和49年5月に終結した。
7.三者会談
   事件発生後14年の年月を経て、突然、被害者とその家族にとってまさに救世主とも呼ぶべき学者
  が現れるのである。
   1969(昭和44)年10月30日に岡山市で開かれた公衆衛生学会において、大阪大学医学部
  衛生学教室の丸山教授らは「14年前の森永MFひ素ミルク中毒患者はその後どうなっているか」
  と題して、被害児67名の追跡訪問調査の結果を発表した。
   それに先立って、10月18日丸山報告は「14年目の訪問」と題する冊子にまとめられ学内の教
  材として提出された。これを受けて10月19日の朝日新聞(大阪)が一面全部を使ったセンセーシ
  ョナルな報道を行った。これに端を発し、各マスコミも大きく取り上げるところとなり、連日紙面や
  ラジオぎわした。森永乳業にとっても行政当局にとってもまさに「晴天のへきれき」ともいうべき
  出来事であった。
   実は、この「14年目の訪問」と呼ばれている大阪府下を中心とする地域に被害者の実態調査は、
  たまたま丸山教授に教えをこいにきた大阪府養護学校の養護教諭、大塚睦子氏の学校に被害者
  が在籍していたことに端を発している。丸山教授の指導のもと、大塚氏はじめ保健婦、医学生、医
  学者らで「森永ひ素ミルク中毒事後調査の会」をつくり、事件当時の古い名簿を頼りに1軒1軒被害
  者の家を訪問し、親から直接に中毒時の状況、成長過程や現状を聞きとっていった。その調査の
  結果、67名中なんと50名になんらかの異常が認められたのである。これは、被害者に後遺症が
  存在することを疑わせるのに十分であった。これをもとに丸山報告がされたのである。
   きっかけは偶然であったともいえるが、戦前から乳幼児の死亡問題を研究テーマとしていた丸山
  教授の問題意識のなかにあり続けた事件に対する強い関心と、高い倫理観に裏打ちされた衛生
  学者としての実績と慧眼がなければ、このような展開は望むべくもなかった。被害者とその家族た
  ちの中で、丸山教授を救世主と呼ぶことに異論をはさむ者は誰一人いないであろう。
   いよいよ事件は社会問題として再燃した。結成いらい孤立無援であった岡山県「こどもを守る会」
  を核にして全国の被害者の親たちは再び結集し被害者救済に向けての大きな闘争が開始される
  のである。丸山報告の一ヶ月後の11月30日に、13都府県から150人の親たちが岡山に集ま
  り、多数の支援者やマスコミが見守るなかで「森永ミルク中毒のこどもを守る会」(以下「守る
  会」)第1回全国総会が開催された。総会の最後に岩月祝一理事長は「私達は今日まで金をも
  らうために運動をしたのではない。過去14年間の伝統と実績の上に立って、あくまで被害者運
  動の純粋性と人道性を守っていくことを誓う。万一これでお気に召さない方がおられるならば、
  即刻退場願って結構です」とあいさつし、北村藤一顧問も「この守る会を自らの瞳のように愛し
  守ろう」と全国単一組織を呼びかけた。これは現在も変わらず、規約前文で「守る会は、過去の
  歴史に学  び、組織を尊重し、かつ全国単一組織制度を堅持する」と明記している。
   こうして守る会は全国組織として再構築され、各地で都府県の支部が結成されていった。支援
  団体もつぎつぎに生まれ、保険・医療関係者、法律家、教育関係者、各種団体と個人等が「対策
  会議」を各地で結成し、守る会と協力した闘いを日本中に発展させていくのである。
  
6.「14年目の訪問」(丸山報告)と守る会の再結集
   「子供を守る会」は森永や岡山県に対して被害児の継続的精密検診等を繰り返し要求し続けた。し
  かしマスコミの反応もなく、孤立無援の運動を続けるしかなかった。事件が発表された8月24日に
  最も近い日曜日に例年開催していた総会も、10周年の年を除けば毎年10名程度の参加者しかい
  なかった。しかし地道な活動が、やがて次の丸山報告の裏づけともなる実績を生むのである。「こど
  もを守る会」は1966(昭和41)年に岡山県に精密検診を要請した。この後検診が実施される
  が、大半の被害児は「治癒」と判定される。親たちは子どもたちの実態からみてこの結果は納得で
  きないとして、県下の理解ある医療機関に再度の検診を要請した。守る会の要請を受けた「岡山
  県薬害対策協議会」の遠迫克己医師が検診の話を新日本医師協会に持ち込み、1967(昭和42)
  年に水島協同病院において35名の集団検診が行われた。その担当をしたのが松岡健一医師であ
  る。その結果肝臓肥大、腎臓障害、発育・知能の遅れ、皮膚の疾患等多様な症状が発見された。
   そしてこの結果は、後日丸山報告を臨床的に裏付ける有力な根拠とされるのである。
 
5.水島協同病院での集団検診
   西日本各地で立ち上がった親たちが結成した被災者同盟(「全協」)は8ヶ月の闘いで解散に追い
  込まれ、各地の被災者同盟も消滅していった。やがて世間からも忘れさられていき、その間に子ど
  もたちは小学校に入学し、中学生になった。救済の手は差し伸べられないまま、不運にも重症な子
  は亡くなり、障害の重い子は在宅で「就学猶予・免除」の扱いを受けた。一部は養護学校等に通い、
  虚弱な子は入退院を繰り返していた。
   消えてしまったかのように見えていた親たちの運動だったが、岡山県では全協が解散した二ヶ月
  後の1956(昭和31)年6月24日に「岡山県森永ミルク中毒の子供を守る会」(1962
  (昭和37)年には岡山県の文字を除き「森永ミルク中毒のこどもを守る会」)が結成されていた。
  被害児の今後の健康管理、救済措置の完遂、親同士の親睦を願っての集まりであった。会の主
  意書に「・・・子らが孤立して無援な情勢下に見捨てられることは、私達親として誠に忍びざる所
  である・・ 子供達が普通の能力と健康とをもって社会生活を送ることが出来るように努力すると
  共に、私達が当初より抱き来たった社会主義の推進のため、広く社会有識者と提携してこの任
  務を発展させることを誓うものである」とある。ひたすら「子供を救い守る」という親の一念が運動
  継続の根底にあった。こめられた親の願いとともにこの組織が、今日まで続く守る会の母体とな
  るのである。
4.岡山県だけで残った親たちの運動
   平成24年10月31日現在 13,429名
    森永乳業株式会社徳島工場の製造によるMF印ドライミルクに、ひ素等の有害物質が混入したこ
  とによる。
   工場にたくさん集まってきた原乳のPH(ペーハー)が酸性になると乳蛋白が凝固し加工できなくな
  る。
  そこでPHを一定に保つ乳質安定剤として第二りん酸ソーダを使用していた。しかしこの時に使用した
  「第二りん酸ソーダ」が元をたどれば、日本軽金属清水工場でボーキサイトからアルミニウムを製造
  する過程でできた廃棄物を脱色再結晶させた物で、化学的には「第二りん酸ソーダ」とはまったく異な
  る物質であった。実はその物質がひ素などの有害物質を多量に含んでいたのであった。
   にもかかわらず、使用に当たって森永はその「第二りん酸ソーダ」の安全性を検査せずに安易に使
  用した。
   国もその流通過程で静岡県知事から毒物に当たるかどうかの照会があったにもかかわらず、適切
  な措置をとらなかったばかりか、事件発生後の1955(昭和30)年11月になって転売許可の通知
  を出したことが判明している。森永はもちろんのこと国(厚生省)の責任も重かったといえる。
3.被害者数
2.原因
1.事件の発生



  昭和30年6月〜8月、西日本の各府県(岡山県、広島県、京都府、大阪府、兵庫県、など)において
 人口栄養の乳幼児の間に原因不明の発熱、頑固な下痢、汗疹様発疹、皮膚の異変などを主症状とし
 疾病が続発した。




    






     
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